station

おかしい。

いつもの満員電車に乗った宮里香織は思った。朝の出勤時の悪名高い埼京線の人混みに揉まれ、吊革を握りしめながら香織はこの異変について考えている。というのもいつも同じ駅で同じ時間に並び、同じつり革を争うあのサラリーマンの男が、今週はなぜかつり革争いを仕掛けてこないのである。

今日も香織はすんなりと吊革を奪取し、男の方を見たが、男は荷物を胸に抱え目をつむったまま人混みに揉まれている。やっぱりおかしいと思いながら、香織は鞄からテキストを取り出した。

その男とはかれこれ半年以上同じ吊革を争っている。30代。仕事もプライベートも充実したキャリアウーマン。平日は仕事で忙しく、土日は目いっぱい遊ぶのでせめて通勤時間くらいは英語の勉強をしないとと思い、香織は一念発起して通勤時間は必ずTOEICの勉強をすると決めたのである。それまでは満員電車の中でipodで音楽を聴き、目をつむって人混みに流されるままだったが、スクールのアドバイザーの勧めもあり通勤時間だけは、吊革につかまりテキストを開くようになったのだった。

そんな通勤電車の中での勉強は、始めて2・3週間で調子が出てきた。いつも決まった車両の決まった吊革に上手に捕まる事が出来ると自分でも驚くくらい集中して勉強できるようになってきたのである。こんな感じで勉強していけば半年くらいでかなり成長しそうだわ、と思った2か月目くらいにその男は現れた。

歳の頃なら四十代中盤。中背で小太り。黒縁のメガネを掛けているその目は細く、良く言えばシブイが悪く言えばオタクっぽい感じである。しかし身なりはいつも小奇麗。昔スポーツをしていたのか、太っている割に時々俊敏な動きをする。その男が登場するようになってから、毎朝、同じ時間・同じ車両で同じ吊革を取り合いするようになった。

初めのうちは互いの存在に気づかなかったが、徐々に明らかに同じ吊革を争っている実感を双方が持つようになった。間一髪その吊革を男に奪われた時、無念人混みに流されながら香織が吊革をうらめしそうに見ていると、通勤電車の中で朝日を浴びる男のメガネが満足そうにキラリと光り、クソー!このオタク野郎!と心の中で叫んだものである。男も香織と同様に吊革につかまると決まって本を取り出した。どうやら男も英語の勉強をしているらしかった。

その男が、今週になってからパッタリと吊革を奪いに来ないのである。月曜日から今日の金曜日まで毎日、目をつむって人混みに揉みくちゃにされている。香織は男に構わずTOEICのテキストを読みだすのだが、なにか気になって仕方がない。

新宿~。新宿~。

いつものアナウンスで我に返り、香織は満員電車から吐き出されるように降りた。暑苦しい人混みの空気から解放され気持ちの良い外気で生き返る。

ふと見ると傍らにあの男がいた。いつもは少し空いた埼京線にそのまま乗って渋谷方面にいくその男が、今日はどうやら人混みに流されて新宿で一緒に吐き出されたらしい。
フン、と思って改札へ向かおうと男の前で踵を返して歩き出す瞬間。男が何かを呟いた。
えっ? と思い、歩きながら振り返ると、男は想像していたよりも低い声でこう言った。

「海外赴任が決まりました。今まですいません。英語頑張ってください!」

思ってもみなかった事を言われた香織は、何かを言おうと口ごもったが、言う間もなく人混みに押されて視界から男が消えた。瞬く間に埼京線はまた沢山の人を吸い込み大崎方面へ発車した。男の姿ももうホームには無かった。

以来、男は二度と電車に乗ってこなかった。香織はいつもの吊革につかまりテキストを開いた。この吊革に捕まって勉強したあの男が海外赴任したと思うと、何やらその吊革が縁起が良いような気がしてきた。香織は吊革を握りしめ少しだけ微笑み、ふたたび英語の勉強を始めた。

 

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