izakaya

‐松永の場合‐

新宿三丁目に、その飲み屋はあった。店名を「どん底」という。名前が気に入り、ひどく落ち込んだ時には、何となくその店に足が向いた。

松永は3ヶ月前に外資系の技術商社に転職し追い込まれていた。それまでも外資系に勤務していたのだが、比較的日本的風土も持ち合わせていて、うまく仕事はこなしていた。
しかしその会社は業績不振で日本法人撤退という憂き目にあい、松永は四十にして転職する事となった。運よく、同業他社に滑り込む事が出来たのだが、その会社はいわゆるザ・外資系。これまで以上に即戦力としてのスキルを求められた。前職ではカバーしていなかった業務が多く、定時は6時だがとてもじゃないが帰れる時間ではない。

この会社では残業=無能を意味する事から、松永は毎日涼しい顔で帰る振りをして、近くのカフェでPCに向かった。常々、年功序列よりも実力主義が当然だと思っていたが、完全実力主義の会社に入ってみると、まさか自分が劣勢に立つとは思っていなかった。

「どん底」は今日も沢山の人で賑わっていた。1951年創業。有名人も訪れる老舗の酒場である。その昔は三島由紀夫も利用していたらしい。店内は老舗の名にふさわしく昭和の匂いの漂う独特の雰囲気がある。松永はその「どん底」で久しぶりに会う友人を待っていた。今は落ち込んでいることもあり、待ち合わせの店は何となく「どん底」を指定したのだ。

友人の住田は10分遅れで到着した。ザ・体育会系証券マンである。

「お姉さん!ビール一つ。それからツメシボ!」

いまどき、おしぼりをツメシボと呼ぶのは時代錯誤だと思うのだが、住田はツメシボを理解しない店員に、ツメシボは冷たいおしぼりの事だよと、したり顔で教えていた。

「で、どうなんだ?新しい会社は?」

住田は唐突に聞いてきた。

「いや、正直まいってる。これまで適当にやってきたツケだね。」

松永は率直に答えた。

「ふん。こりゃ相当やられてるね。何がそんなに困るんだ?」

「色々あるんだが、一番困ってるのは本社出張だ。本社はサンフランシスコにある。今までは外資系と言っても東欧の会社だったから英語は互いにとって外国語。カタコトでも良かったんだ。でも今はバリバリの米国企業。奴らの英語は容赦がないんだよ。」

「いいね、サラリーマンの悲哀! じゃあやるしかないだろ。英語!」

「ああ。笑っちゃうだろ。外資経験者がこの歳でスクール通い。」

「まあそういうな。俺の上司もただ今絶賛英語勉強中だ。学びに年齢制限はないぞ。この年で英語ペラペラも悪くない。」

二人は遅くまで飲み明かし、最終電車で新宿を後にした。久々に痛飲した松永は千鳥足で家に帰り、マンションのポストを開け、「もうやらないと崖っぷち!」と書かれた英会話スクールのチラシを見て苦笑した。

‐住田の場合‐

JR恵比寿駅と日比谷線広尾駅の丁度間くらいにその店はあった。店名を「賛否両論」という。店主はテレビでも活躍する有名な料理人。予約が無いと入れない和食の隠れ家的名店である。

店のカウンターで住田は考えこんでいる。持ち前の根性と努力で今まで多くの困難を乗り越えてきたが、今回ばかりは中々答えが出ない。そこで住田は一年ぶりに松永に会うことにしたのである。

「よう、久しぶり!お前からの誘いなんて珍しいね。」

松永は一年前とは打って変わり、元気な笑顔で登場した。

「忙しいところ悪いな! 実は相談があってな。まあ座れ。ええっと、お姉さん!ビール一つとツメシボ!」

話によると、住田は勤務する証券会社から、昇進に際してTOEICスコアを求められたのである。もともと英語が苦手な住田は転職して新天地で再起を目指すか、観念して昇進の為に英語の勉強をするか選択を迫られている。とにかく英語嫌いな住田は今の会社を辞めようと思っているのだが、どのみち将来、英語からは逃げられないのではないかとも思っている。松永のその後の状況も知りたい住田は、自身の決断の賛否を聞きたかったのだ。

「会社を辞める? そう言うなよ。学びに年齢制限はないぞ。この歳で英語ペラペラってのも悪くない。」

と言って二杯目の焼酎をグイッと飲み、松永はケタケタと笑った。

そして懐からクシャクシャになったオレンジ色のチラシを出し、住田に見せる。

「『もうやらないと崖っぷち』。お陰様で俺も絶賛勉強中だよ。まだ完璧には程遠いが、一応それなりに形になった。お前もそろそろ観念したらどうだ?」

「大したもんだ。しかし俺の英語オンチは半端じゃないぞ。しかも俺は勝てないフィールドでは戦わない主義だからな。今回の英語は俺のポリシーに合わない。」

「それもいいんじゃないか?それはそれで筋が通ってる。お前らしく好きにしたらいい。挑戦するもしないも、自分次第だからな。」

「かーっ!余裕だなこの野郎。ところでお前、どうやって勉強したんだ?」

「それはね・・・」

二人の恵比寿での夜はこうしてふけていった。

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