ルーキーの苦悩

こんなはずじゃなった。
平木加織は一人、自宅でカフェラテを飲み干しながらつぶやいた。

就活中、あれほど入りたかった会社から念願の内定をもらい、4月から新社会人。華々しい入社式と励みになるトップの訓示。気の合う同期の仲間も出来た。座学中心の研修は退屈ではあったが、早く実務で活躍したいという思いで真面目に取り組んだ。

ゴールデンウィーク明けの着任後は、メモを片手に新しいことを覚える毎日。早く一人前になれるように奔走した。時折大学時代の友人とも連絡を取り合って励まし合ってきた。大学四年の時は授業が無く怠惰な生活だった為、4月から毎朝満員電車に揺られるのは辛かった。
通勤電車のサラリーマンのオジサンたちはひたすら疲れている様に見えて、自分もそう見えているのかと思うと、言い知れない不安が押し寄せた。この満員電車に揺られ自分はいつまで、そしてどこまで行くのだろう。

それにしても今日は疲れた。朝イチから課長に叱責されたのだ。

「ちゃんと自分で考えて動け!」

午後には先輩でありチューターの徳野にこう言われた。

「言われた事だけやってれば良いんだよ。余計な事をするな!」

はー・・・。もっとちゃんとした仕事をして、早く一人前になりたい・・・。加織は溜息をついてベッドに倒れ込んだ。


翌朝、出社すると既にオフィスはバタバタとした雰囲気であった。

「どうしたんですか?」加織は先輩の徳野に聞く。

「得意先のディーラーが来ることになった。昨日急遽決まったらしい。2時に来期の商品説明を会議室で実施するそうだ。急に決まったので準備でバタバタだよ」

見ると皆、商品のサンプルを手配したり、営業と価格の打合せをしたり、電話もジャンジャンなって、さながらお祭り騒ぎである。

「おーい。平木君!」不意に課長に呼ばれた。

「得意先のディーラーが来るので関係各所との調整が必要なんだが時間があまり無い。海外営業とは無理矢理12時から打ち合わせを入れた。ランチミーティングをして午後のプレゼンの内容を擦り合わせておこうと思うので、悪いけど弁当を手配してくれないか?人数を確認して大至急頼む」

そう言って、課長は受話器を取り別の部署に連絡を入れ始めた。


午後2時。ディーラーとの会議が始まった。相手は北米の有力ディーラー。会議は終始英語で進められた。課長も徳野も英語を駆使して説明を続ける。当然、質疑応答も英語である。新商品の説明を英語で進める先輩・上司の姿はとても格好良く見え、加織は羨望の眼差しを向けた。

加織は学生時代から英語は好きだったが、仕事で使うレベルではなかった。ディーラーとの会議は、ギリギリまで準備をした甲斐があり、滞りなく終わった。


夜、加織は徳野に連れられて居酒屋で飲んでいた。酒が進み酔いが回る。勢い、思わず本音が出た。

「徳野先輩!わたし、もっと活躍したいんです。ヒック。課長からはもっと考えろと言われるし、先輩からは言われた事だけやれと言われるし、ヒック。正直、意味がわかりません。はっきり言って今日私がやったのは弁当の手配だけですよ!私も英語でプレゼンが出来る様に経験を積んで、会社に貢献したいんです!だから英語も勉強してます!ヒック!」

徳野は笑って答えた。

「なるほどな。では、これから貴重なアドバイスをしてやろう。まず第一にお前は完全に間違っている。目の前の仕事に全力でぶつかれない奴に大事な仕事は任せられない。弁当の手配も立派な仕事だ。第二に、課長の言っている事は正しい。もっと自分で考えて動け。それが主体性だ。一方で俺の言っている事も正しい。言われた事をしっかりやれ。一人よがりの考えが余計なんだ。お前の考えはFor meであってFor usではない。そのあたりのバランス感覚はこれから身に付く。『自分で考えろ』と『余計な事をせずに言われた事をやれ』は後でちゃんと両立する」

「でも、そんなのって今はわかりませんよ。ヒック。一体どうすればいいんですか!」

「常に上司と考え方を擦り合わせろ。そして走りながら考えろ。それから少し水を飲め。さっきからお前のそのシャックリで聞きづらいんだよ。それとな、新人は全員そのジレンマに陥る。失敗して学べと言われて、実際に失敗して怒られるなんて日常茶飯事だ。でも今矛盾に見えてる事は全て後で理解できる。だから焦るな。今はただガムシャラに目の前の事を打ち込むんだ。英語もそうだろう?確か平木は英語は得意と聞いてるぞ」

「ヒック。現在絶賛勉強中ですけど。ヒック」

「英語は全て理解出来てから話すものではない。何度も間違えながら上達するもんだ。仕事も失敗しながら覚える。いいか。泳げるようになってからプールに行く奴はいないんだ。英語のプレゼンもいずれ出来るようになる。その時が来るまでに仕事も英語もしっかりとスキルアップしておけ。ちなみにスキルアップは就業中にするんじゃないぞ。自分の時間を削ってやるんだ。なぜならそれは自分の為だからだ」

ガーンと頭を打ちつけられた。

帰り際、その食事代は徳野が払ってくれた。相談に乗ってもらい、愚痴も聞いてもらって食事代まで払ってもらうのはさすがに憚って遠慮したが、徳野は言った。

「飯代は気にしなくていいぞ。俺もこうやって教えてもらって、上司・先輩に驕ってもらったんだ。その代りお前も良き先輩になった時、後輩の話を聞いてアドバイスをしておごってやれ。そうやって俺たちは成長していくんだ。ほら、帰るぞ。明日は遅刻すんなよ」

徳野は地下鉄の入口を降りて行った。

人混みに消える後姿にお辞儀をし、シャックリはいつの間にか止まっていた。